ゲーデルの不完全性定理の解説の本編はその2から始まります。
ゲーデルの不完全性定理。
この定理ほど、数学の文脈を外れて語られる定理は他にないだろう。
しかしその知名度とは裏腹に、この定理を理解している人はほとんど、いやまったくと言っていいほどいないのが現実だ。
実際、YouTubeで調べてみると、数多くの動画がヒットするにも関わらず、まともに内容を解説している動画はほとんど見当たらない。
そもそも不完全性定理の完全な証明は、おおよそ論理学・数学基礎論を未修の素人に理解できるような代物ではないのだが、その難解さゆえ、分野を超え人を惹きつけ続けてきた。
特にこの定理は哲学の文脈で語られることが多い。
おそらくそれは、フレーゲ、ラッセルはじめとする近代の哲学者たちが論理学に多大なる貢献を果たし、その延長線上にゲーデルもいるからだろう。
また、ゲーデル自身がかなり哲学的な人であったというエピソードがそうさせているのかもしれない。
しかしこの定理に関しては、アナロジーを超えて哲学的な意味を見出すことは困難であると私は感じている。
ある形式的なルールが矛盾を孕むと主張したいなら、わざわざ不完全性定理を出さなくても、すでに世の中にはたくさんのパラドックスが存在している。
それでも、なぜかこの定理には惹きつけるものがあるのだ。
かく言う私もその一人である。
私のゲーデルの不完全性定理との最初の出会いは、ダグラス・ホフスタッター著『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だった。
ホフスタッター自身はゲーデルの定理を正確に理解しており、その上でアナロジーとして活用しているのだが、間違いなくこの書籍は多くの過剰な不完全性定理ファンを生み出した。
ホフスタッターは、バッハの楽曲とエッシャーの絵画をアナロジーとして不完全性定理を解説し、さらにその不完全性定理をアナロジーとして人間の心の説明に試みるという、なんとも大胆で、遠回りで、難解な本を書いた。
ホフスタッターは本書で、後に示す不完全定理のように、人間の脳の形式的なアルゴリズムが自己言及性を持ち、マトリョーシカのように幾重もの入れ子構造になったとき、意識が生まれるのではないか、と言う。
今思えば、彼が言うように心が自己言及的であることを示すのに、果たして不完全性定理が適切であったかといえば悩ましい。
しかしそれでも読んだ当時の私は何か特別な魅力を感じ、この定理にのめり込んでいった一人だった。
他に多くの誤解を生み出した元凶といえば、ノーベル賞受賞者でもあるロジャー・ペンローズ著『皇帝の新しい心』である。

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この中で、ペンローズは、不完全性定理が「真であるが証明できない命題を示した」とし、ただの演算をするコンピュータはこの命題に辿り着けないが、人間は(ゲーデルは)たどり着くことができるのだから、人間の脳は単なるコンピュータ以上のものであると主張した。
これはこの後の解説を読めばわかるが、単なるペンローズの不完全定理に対する解釈の間違いである。
私も脳は単なるコンピュータではないと考えているが、それは全く別の方向性から主張されるべきであろう。
また、ゲーデルの不完全性定理は、その名前の語感からか、ハイゼンベルグの不確定性原理と並列で語られたり、間違えられたりすることも多い。
しかしこの二つが交わるところは何もない。
英語なら “Incompleteness Theorem” と “Uncertainty Principle”であり、語感ではかすりもしない。
そもそも「定理」と「原理」が同じなはずないだろう。
にもかかわらず、この二つに関係があると主張する人は後を立たないのだ。
ある時YouTubeを見ていると、昔のテレビ番組の切り抜きが関連動画に流れてきた。
何気に見ていると、その中で耳を疑う発言が発せられ、3回くらい再生して聞き直してしまった。
その番組のゲストで登場したある著名人が、あろうことか、
「不完全性定理によって神はいないことが証明された(これはよく聞くナンセンスな解釈である)」
「ゲーデルの不完全性定理とハイゼンベルグの不確定性原理は同じであることを私が証明した(⁉︎)」
と堂々と発言しているのである!
この発言は、理系の学部生や賢い子高校生が聞けば鼻で笑うレベルの嘘である。
理系の学部生でもなく賢い高校生でもなかった私でも、思わず爆笑してしまった。
世直しをしたい気持ちはグッと抑えて、本人の名誉のため名前は書かないでおこう。
(……おっと、手が滑って関係ない動画を貼ってしまった)
不完全性定理と不確定性原理は、両者とも20世紀の前半に研究され、発表されるや否やたちまち多くの学者の注目を浴びた。
この二つに何か共通点があると考えたのは、何も氏だけでない。最初に言い出したのはおそらく、あのリチャード・ファインマンの師でもあったジョン・ホイーラーだ。
彼はゲーデルの定理について知るやゲーデルのもとへ行き、「この二つには何か関係があるのですか?」と質問した。
それに対するゲーデルの答えは沈黙だった。
この二つから無理やり共通点を探すならば、よく言われるのは人間の「認識の限界」、すなわち、我々が数学や物理の理論を通して世界を理解するやり方には論理的な限界があるのだ、そのことをゲーデルもハイゼンベルグも示したのだ、とまとめられることが多い。
しかし私に言わせれば、これは「認識の限界」ではなくむしろ「実在のあり方」なのである。
数学という体系も、物理的世界も、ある(ゲーデルの定理で言えば高次にメタな、不確定性原理で言えば極端に小さな)スケールに行けば、実在のあり方が変わってくる、と。
とまあ、このような感じでとにかく誤解される定理なだけに、その印象を払拭するためにも、ここまでの字数を費やす必要があったのだ。
だがもう少し前置きを続けさせてほしい。本定理を知っている人は今からする話はすでに既習だろうが、歴史的背景を少しだけ書こう。
そもそもゲーデルの発表した論文のタイトルは『プリンキピア・マテマティカおよびその間連体形における形式的に決定不可能な命題について』という禍々しいものである。
このプリンキピア・マテマティカ(数学原論)というのはバートランド・ラッセルとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの二人によって書かれた長大な著作である(実際ほとんどラッセル一人の功績と言っても良いだろう)。
これは脱線する話だが、遡ればデカルトが『プリンキピア・フィロソフィエ(哲学原論)』を著し、それに影響を受けたニュートンが『フィロソフィエ・ナチュラリス・プリンキピア・マテマティカ(自然哲学における数学的諸原理)』を書き、そしてこの『プリンキピア・マテマティカ』という、命名の歴史がある。
聞いたことがあるかもしれないが、1+1=2であることの証明に700ページも費やした、などと言われる書籍はこれである。
ラッセルとホワイトヘッドのこの本の中での試みは、「数学を論理学に基礎づける」ことだった。
元はと言えばこれはゴットロープ・フレーゲによる試みでもあったが、ラッセルはフレーゲが『算術の基本法則』で示した公理系が矛盾を引き起こすことを発見する。
これがかの有名な「ラッセルのパラドックス」である。
ちなみにフレーゲは現在も数学で使われる全称量化(∀)存在量化(∃)の記号を生み出した本人であり、これは後の解説でも登場する。
ラッセルのパラドックスは、
「自分自身を要素の持たない集合xの集合Xは、自分自身を要素に持つか、持たないかが決定できない」
というものである。
XがXを要素に持つならば、「自分自身を要素の持たない集合の集合」という自身の定義と矛盾し、逆にXがXを要素に持たないと仮定しても、Xの定義により、XはXを要素に持つことになってしまい矛盾する。
そんなわけで、ラッセルはタイプ理論という理論を考案し、そもそも「集合の集合」といったものを許さない制約を課した上で、数学の基礎づけに試みた。
ラッセルの業績については割愛するが、この流れを継いで、20世紀最高の数学者であるダヴィッド・ヒルベルトは数学における形式主義を牽引し、「数学全体の完全性と無矛盾性を示す」というヒルベルト・プログラムを企てた。
そしてこのヒルベルトの夢、ラッセルの夢を打ち砕いたのがゲーデルだったのだ。
と言うわけで、ここまでは前置きの前置きであり、本題の前置きに入っていこう。
今回の説明もまた、厳密なものではない。あくまで、一般読者に概要をわからせる、と言うことを目的としているため、詳しくは専門書を当たってほしい。
以下の教科書では完全な証明が載っている。
ここまで散々偉そうな口を聞いてきたことはお詫びするが、私も紆余曲折をへてようやく辿り着いた解説であり、そのわかりやすさには自信がある。
あくまで専門用語を極力使わず、“ちょうど良い”説明がないことを皆は憂いてきたはずであり、私の解説はその“ちょうど良い”ものであるという自信があるのだ。
まず概要であるが、ゲーデルの定理は「第一不完全性定理」と「第二不完全性定理」に分かれる。
そして「第一不完全性定理」は、算術体系を自然数に一対一対応させる第1フェーズ、そこから証明も反証もできない命題を作り出す第2フェーズから成り立つ。
そして今回、第1フェーズを完全に飛ばす(!)。
なんだよ意味ないじゃんと思うかもしれないが、これは現在のコンピュータに慣れている我々からすれば実に自然に受け入れられることだからだ。
一応概説しておくと、先ほど登場したフレーゲの記号(∀、∃)を使えば、数学的な命題=文を表すことができる。
文というのは、「すべてのxに対して、y=2xとなるようなyが存在する」というようなものである。
これをフレーゲの記号を使えば、「 ∀x∃y (y=2x) 」というふうに書ける。
ゲーデルは上手いやり方を使って、このような考えられうる数学上のすべての文に、それぞれただ一つの数字を割り当てる方法を思いついた。
この文に割り当てられる数字のことを、ゲーデル数とよぶ。
実はこれがゲーデルの最も偉大な発見である。このアイデアに基づいてアラン・チューリングが万能チューリングマシンのアイデアを思いつき、現在のコンピュータの基礎理論となるのだ。
その意味でゲーデルはコンピュータの生みの親の一人なのである。
我々がメールやワードで書いている文章だって、すべて数字によりコーディングされていることはすでにご存知だろうから、現代ならこれはすんなり受け入れられるはずだ。
しかしとにかく、ゲーデルの証明のこの部分は長くて地道でめんどくさい。
なので、不完全性定理を楽しむためにはフェーズ1は前提事項として了解していただいて、第2フェーズから始めよう。
(その2へ続く……)
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